第五回ことばと新人賞受賞作(池谷和浩「フルトラッキング・プリンセサイザ」)

ことばとも五大文芸誌も掲載される小説の質が低い点で共通しているが、ストレスなく読める点ではことばとより五大文芸誌のが優れている。五大文芸誌は――さすが大手の出版社と褒めるべきか――校正漏れが皆無に等しいからだ。

ことばとvol.7は前号に続き校正漏れが多かった。このザマなら、書肆侃侃房の他の書籍も校正漏れが多いのではないかと気持ちが萎えてしまう。文学フリマで五百円で売られている雑誌なら気にならないが、「ことばと」は(数が少ないとはいえ)書店に流通するような”立派な”文芸誌なのだから(税込み二千円、値段だって決して安くはない)、編集部にはきちんとした仕事をしてほしいと思う。

第五回ことばと新人賞受賞作、池谷和浩「フルトラッキング・プリンセサイザ」。受賞の言葉によると、作者は《言語芸術と呼んで誰に憚ることもない、ある一線を越えて美しく、知らない誰かにとって新しく面白い読み物》を目指したそうだ。

僕が読んだものと、受賞の言葉に書かれているものは、同じ「フルトラッキング・プリンセサイザ」なのかと疑った。僕が読んだそれは、言語芸術と呼ぶのが憚られる、美しい美しくない以前の、ちょっと抜けたところのある主人公による、無味乾燥とした日常の記録の寄せ集めだったからだ。新しく面白い読み物……?

受賞の言葉には、《具体の積み重ね》とも書かれている。確かに、この作品は具体の積み重ねによって成り立っている(AI空間だろうが、現実空間だろうが、文章は何も変わらない)。逆に言えば、この作品には機微も、含蓄も、哲学もなく、どこを切っても似たり寄ったりの具体の積み重ねがあらわれる。主人公の五感や心の動きに関する描写が貧弱なため、その主人公の五感や心の動きを介した先にあるはずの具体の積み重ねが生きてこないのだ。

肝心の《具体の積み重ね》はというと、

《三時間乗って、港のある市に着いた。駅からタクシーで繁華街まで行った。運転手に、一番手前にある横町の前で降ろしてください、と頼んだ。部長は飲み屋横丁マップで運転手に見せた。二枚持っていて、一枚には赤いペンで線が引かれていた。横丁をつないでいくルートになっていた。》(「ことばとvol.7」296頁)

《シートに座って、バックパックを膝の上に載せた。向かいに座った乗客が全員、黒いマスクをしていて、気になった。一人は制服を着ていて高校生だと思われる、それから青年といったらいいのか、とにかく若者。脱いだ上着を手に持っていた。ロングカットソーの下の胸板が厚い。もう一人はうつヰより一回り年上に見える女性。パーマをかけている。》(「ことばとvol.7」310頁)

――個人ブログの日記のような低質な文章が延々と続く。

いや、個人ブログの日記のがもっと面白い文章を書く人はたくさんいるだろう。

主人公の着眼点は変わっているが、着眼点が変わっているだけで、それに対するコメントはごくごくありきたりな内容なので(《向かいに座った乗客が全員、黒いマスクをしていて、気になった》――気になった、って……)、主人公も含めて全てが取り留めのない風景として目の前を流れていくよう。一人称にしては個々の描写が他人事過ぎるし、三人称にしては視点が主人公に偏り過ぎて客観性に欠けるし、僕にとっては面白さを見出すのが困難な小説だった。

《一緒に次の作品を企てようという伴走者が現れてしまうような、人と引き合う力を持った造形物》(受賞の言葉)

気概は素晴らしいが、達成するのは難しいだろう。なぜなら、この作品には普遍性というものが欠如している。主人公のごく狭い視点で閉じられた(=日常のどうでもいい細部ばかりが肥大化された)作品に、それだけ多くの人を引き合わせる力があるとは思えない。作者は、作家業で頑張るより、デジタルハリウッド株式会社の大学事業で頑張るほうが、《一緒に次の作品を企てようという伴走者が現れてしまうような》才能を発揮できるのではないか?

コメントを残す