木崎みつ子『コンジュジ』

仮に小説として不出来だったとしても称賛するつもりで『コンジュジ』を手に取った。トラウマというセンシティブな問題と対峙しようとした作者を応援したい気持ちがあったからだ。読み進めるにつれ、僕の気持ちはどんどん盛り下がっていった。小説の文章が下手なのはいくらか目を瞑るつもりでいた。問題は、それが「いくらか」と言える程度に留まっていなかったことだ。

いちいち指摘していたらキリがないものの、愚にもつかない比喩の連続は目も当てられない。《水を得た魚のように》《小鳥と一緒に青空を飛べそうな》《七福神のメンバーのような人間》《遊牧民のようにバンで大学を回り》《女性用シャンプーCMの如くサラサラの髪》《洪水のように流れ出る鼻水》etc……これらのくだらない比喩は(ギャグでない限り)作品の品位を落とすだけなので、削除したほうがいい。

冒頭のせれな(主人公)と父親と内縁の妻の関係についての説明はまだいいとしよう、リアン(主人公の空想の人物)の過去について「~らしい」「~そうだ」と単調な文章が延々と続くのには辟易した。「海外のバンドマンって、こんな感じで合ってる?」と首を傾げる作者の姿が頭に浮かぶようなステレオタイプな回想――いつの時代の少女漫画に毒されているんだよ!――が何頁にも渡って延々と続く。

『もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて』の著者・矢川冬さんが教えてくださった情報によると、『コンジュジ』の作者は小説を書くにあたり性的虐待の当事者の著書やブログを渉猟したそうだ(作者にとっては、「それらの参考文献からアイデアを得て小説を書いた」というより、「それらの参考文献を読むことで小説を書き続けることができた」という意味合いであるようだ)。閉鎖的な空間で繰り返される性的暴行、周囲の無理解によるセカンドレイプ……この作品にはサバイバー「あるある」が並べられている。

この作品のつまらなさ――というより、致命的な欠陥――は、サバイバー「あるある」描写の一個一個の精度が低いせいで、性的虐待の被害者が抱くだろう恐怖をきちんと書き出せていないことにある。端的に言えば、リアリティを欠いている、ご都合主義な展開が目立っている。

小説の中盤、高校生のせれなは《もういい、言ってしまえ。溜め込む必要はない。どうせ我が家は崩壊している。学校だって行けなくなってもいい。ホームレスになってもいい。》《殺されるかもしれないが構わなかった。》と意を決し、性的虐待の加害者たる父親に向かって暴言を吐きまくるという反撃に出る。

僕はこの時点で、この小説は終わった、と思った。作者は性的虐待の被害者の書籍やブログから知り得た知識や体験をなぞっているだけで、被害の実態、トラウマへの理解が及んでいない印象を受けた。被害者が加害者に面と向かって反撃するのは、およそ現実的と言えない。小学生の頃から性的暴行を加えてきた実の父親が相手、しかも相手と二人っきりの逃げ場のない密室であれば尚更だ(《ごぼうみたいに痩せた年寄り》と父親は描写されるが、せれなの年齢から40~50代と推測される、決して弱々しい相手とは言えないだろう)。《今でも怖い。》と取って付けたようにせれなの心情が描かれるものの、そこに生々しい恐怖の手触りはない。

僕が知らないだけで、二人っきりの密室で加害者に面と向かって挑発しまくる被害者がどこかに存在するのかもしれない。そういう闘争心あふれる勇敢な(勇敢過ぎる)当事者がいたとしても、ごくごく珍しいケースではないか? サバイバーの過酷な現実を反映させた血の通った筋書きでなく、サバイバーへの取材を欠いたまま作者が頭の中だけで組み立てたザルな筋書きに思える。内縁の妻がせれなの父親を殺害し、父親による報復の心配が消えるという展開も、あまりにご都合主義が過ぎる。

作者は、矢川さんに宛てたメールで、

「性虐待」という問題は、当事者ではない人間が安易に扱っていいものではないということは承知しているつもりなのですが、何年もずっと「こんな世の中を変えたい」という願望があり、小説というフィクションで自分の思いを表現いたしました。小説は可能な限り被害に遭われた方々を傷つけたり、不快な思いをさせることがないように配慮しながら書いたつもりです。

(その後を生きる、矢川冬の場合「木崎みつ子著「コンジュジ」を読んで分かったことの考察・・・シリーズ①」)

(下線は引用者による)

と記している。

「こんな世の中を変えたい」、それは立派な心意気だ。

だとすれば、だ。

数年前は怒鳴る父を見て震え上がった。今でも怖い。だがせれなはもう親に口答えできない小学生ではない。

(『コンジュジ』木崎みつ子)

(下線は引用者による)

これは、”親に口答えできる年齢になっても(トラウマの影響によって)口答えできないでいる” 当事者に失礼ではないか。作者に悪意がなかったとしても、現在進行形でトラウマの後遺症に苦しんでいる被害者への配慮を欠いていると言える。

――もっとも、文学は道徳の教科書ではない(これは日比野コレコの小説の感想でも書いた)。「当事者」を扱うからといって、「当事者」の顔色を窺う必要はない。そうは言っても、《こんな世の中を変えたい》という立派な心意気を持った作者であれば、当然「当事者」に対してなるべく配慮したいと考えているだろう。そういう意味で、《せれなはもう親に口答えできない小学生ではない》の一文は一考の余地があるのではないかと指摘しておく。

小説の終盤、《天井から楕円形の黒い物体がふよふよと飛んできた。黒い物体はせれなの腹の上にペッタリ張りつくと、瞬きよりも早く人間のシルエットになった》といった魑魅魍魎じみたフラッシュバックの描写にはぎょっとした。僕の知るフラッシュバックと比べてあまりに異質だったからだ。僕個人の見聞が全てではない、現実にそのようなフラッシュバックを体験する当事者もいるのかもしれない。一方で、作者がフラッシュバックの実態をよく知らないまま過度に誇張しているのではないかという疑念も抱いた。三人称が客観的に物事を捉える役割を充分に果たしていると言えず、さらに全編にわたって脇の甘い表現が散見されるため、作者の意図した表現なのか作者の無知ゆえの表現なのか区別がつかないのだ。

せれなはサバイバー「あるある」の行動をなぞりながらも、肝心なところで作者の延長(コマ)としての振る舞いを見せる。作者の観察の不徹底は、父親、叔母、叔父、バイト先の同僚といった人物造形の粗雑さにもあらわれている、元妻、内縁の妻に至っては、(正確な引用ではないが)「自己中心的な頭の悪い女」「無口で大柄な異国の女」といった粗末な説明書きで済まされてしまう、描写にすらなっていないチープな説明を継ぎ接ぎして一丁上がり、作者は真面目腐った顔で「生身の人間」をなぞったつもりになっている。

せれながリアンの棺桶に入って眠りに就く結末は、残念ながら滑っている。リアンと父親のイメージを重ねるような描写をしながら、せれなをリアンの棺桶で眠らせようとする作者の意図は何か? これでは――作者が否定したとして――せれながファザコンを拗らせている解釈もできてしまう。妄想の人物との対話によって安らぎを得る当事者は現実に存在するだろうが、サバイバーが妄想の人物との対話によって自己完結的な癒しを得るオチは、「こんな世の中を変えたい」という問題提起として「最悪の一手」だと言える。

せれなの一人称を採用して解離の症状の酸いも甘いも含めて描き出すか、三人称の最大の利得である分析的な視点からサバイバーの現実を炙り出すか、いくらでも工夫はできたはず。せれなの妄想ばかりを強調し、妄想の描写と対を成すはずの現実の描写をおざなりにするくらいなら、三人称ではなく一人称を採用したほうがよかったのではないかと僕は思う(おそらく、この作者には三人称より一人称のが合っているだろう)。

『コンジュジ』の川上未映子の帯文にも引っ掛かった。

とんでもない才能。
サバイブの果てに辿り着く、
こんなに悲しく
美しいラストシーンを
わたしは他に知らない。
深く、胸を打たれた。

サバイバーの現実は、おそらく川上にとって対岸の火事なのだろう。『コンジュジ』は主人公が妄想上の過去の恋人の棺桶で眠りに就くところで幕を閉じるが、これが《サバイブの果て》――? どう考えてもサバイブの過程だろう。トラウマは、PTSD・解離の多岐に渡る後遺症は、そうそう癒えることがない。子供時代に虐待を受けた被害者は精神疾患・身体疾患のリスクが跳ね上がるというACE(adverse childhood experiences=子供時代の有害な体験)研究もあるくらいだ。

親による性虐待のむごさは、その光景が脳裏に一生浮かぶことにある。私は家族(母親、妹)にいつまでもいつまでもそんなこと言って!いい加減に忘れろ!と怒鳴られたが、自分の意志に関係なくその光景に揺さぶられるのだから、揺さぶられるな!と怒鳴った家族(母親、妹)もまた想像力の無いむごい人間だった。私が縁を切ろうと思って大正解だったのだ。

(その後を生きる、矢川冬の場合「毒になる専門家たちーー体験的見解」)

川上なりのある種の文学的なポーズとして《サバイブの果て》という言葉がうってつけだったのかもしれないが(それにしても陳腐だ)、そんな書き手のナルシスティックな欲望を満たすためにサバイバーの現実を利用するのはやめろと声を大にして言いたい。川上は現実に存在する性的虐待の被害者に対する想像力が乏しいがために、トラウマを抱えた当事者の実態を甘く見積もっているのではないか、そうでなければ《サバイブの果て》などという安易な表現は畏れ多くて使えないはず――と、書きながら、僕はずいぶん前に読んだ川上の『ヘヴン』という小説を思い出した。

『ヘヴン』はいじめを受けている中学生の男の子が主人公の作品だった。いじめの描写のリアリティのなさ(一般的な中学校ではあり得ない状況下でいじめが繰り返される)、主人公の斜視が治ったおかげで世界がきらきらと美しく金色に輝いて見えたという三文小説じみた結末に愕然とした記憶がある。ここから川上の希求する虚構のリアリティレベルはユルユルということが分かる。だからこそ、川上は『コンジュジ』を読んで「これがサバイバーの現実……ッ!」と《深く、胸を打たれた》のか? 僕はそんな邪推までしてしまった。

『コンジュジ』を読みながら、僕は『愛と呪い』(ふみふみこ)という漫画を思い出した。

(画像:ふみふみこ『愛と呪い』14話)

『コンジュジ』、『愛と呪い』、いずれも性的虐待のトラウマが主題となっている点で共通している。『コンジュジ』はサバイバー「あるある」を粗雑な筆致でなぞっただけで終わっているのに対し、『愛と呪い』は迫力ある表現でもってサバイバー固有の孤独感を炙り出している。

創作活動に優劣はない。結局のところ、作品の良し悪しは各々の読者の好みによって判断される(「文学の霊感」も例外ではない)。その上で、僕は自分の立場から評価を述べたい、『コンジュジ』が純文学の権威・すばる文学賞を受賞した小説でありながら掘り下げの浅い(ライトノベルと親和性の高い)作品とすれば、『愛と呪い』はエンタメ寄りの雑誌に掲載された漫画でありながら歴とした文学的強度を湛えた作品だ、と――。

第五回ことばと新人賞受賞作(池谷和浩「フルトラッキング・プリンセサイザ」)

ことばとも五大文芸誌も掲載される小説の質が低い点で共通しているが、ストレスなく読める点ではことばとより五大文芸誌のが優れている。五大文芸誌は――さすが大手の出版社と褒めるべきか――校正漏れが皆無に等しいからだ。

ことばとvol.7は前号に続き校正漏れが多かった。このザマなら、書肆侃侃房の他の書籍も校正漏れが多いのではないかと気持ちが萎えてしまう。文学フリマで五百円で売られている雑誌なら気にならないが、「ことばと」は(数が少ないとはいえ)書店に流通するような”立派な”文芸誌なのだから(税込み二千円、値段だって決して安くはない)、編集部にはきちんとした仕事をしてほしいと思う。

第五回ことばと新人賞受賞作、池谷和浩「フルトラッキング・プリンセサイザ」。受賞の言葉によると、作者は《言語芸術と呼んで誰に憚ることもない、ある一線を越えて美しく、知らない誰かにとって新しく面白い読み物》を目指したそうだ。

僕が読んだものと、受賞の言葉に書かれているものは、同じ「フルトラッキング・プリンセサイザ」なのかと疑った。僕が読んだそれは、言語芸術と呼ぶのが憚られる、美しい美しくない以前の、ちょっと抜けたところのある主人公による、無味乾燥とした日常の記録の寄せ集めだったからだ。新しく面白い読み物……?

受賞の言葉には、《具体の積み重ね》とも書かれている。確かに、この作品は具体の積み重ねによって成り立っている(AI空間だろうが、現実空間だろうが、文章は何も変わらない)。逆に言えば、この作品には機微も、含蓄も、哲学もなく、どこを切っても似たり寄ったりの具体の積み重ねがあらわれる。主人公の五感や心の動きに関する描写が貧弱なため、その主人公の五感や心の動きを介した先にあるはずの具体の積み重ねが生きてこないのだ。

肝心の《具体の積み重ね》はというと、

《三時間乗って、港のある市に着いた。駅からタクシーで繁華街まで行った。運転手に、一番手前にある横町の前で降ろしてください、と頼んだ。部長は飲み屋横丁マップで運転手に見せた。二枚持っていて、一枚には赤いペンで線が引かれていた。横丁をつないでいくルートになっていた。》(「ことばとvol.7」296頁)

《シートに座って、バックパックを膝の上に載せた。向かいに座った乗客が全員、黒いマスクをしていて、気になった。一人は制服を着ていて高校生だと思われる、それから青年といったらいいのか、とにかく若者。脱いだ上着を手に持っていた。ロングカットソーの下の胸板が厚い。もう一人はうつヰより一回り年上に見える女性。パーマをかけている。》(「ことばとvol.7」310頁)

――個人ブログの日記のような低質な文章が延々と続く。

いや、個人ブログの日記のがもっと面白い文章を書く人はたくさんいるだろう。

主人公の着眼点は変わっているが、着眼点が変わっているだけで、それに対するコメントはごくごくありきたりな内容なので(《向かいに座った乗客が全員、黒いマスクをしていて、気になった》――気になった、って……)、主人公も含めて全てが取り留めのない風景として目の前を流れていくよう。一人称にしては個々の描写が他人事過ぎるし、三人称にしては視点が主人公に偏り過ぎて客観性に欠けるし、僕にとっては面白さを見出すのが困難な小説だった。

《一緒に次の作品を企てようという伴走者が現れてしまうような、人と引き合う力を持った造形物》(受賞の言葉)

気概は素晴らしいが、達成するのは難しいだろう。なぜなら、この作品には普遍性というものが欠如している。主人公のごく狭い視点で閉じられた(=日常のどうでもいい細部ばかりが肥大化された)作品に、それだけ多くの人を引き合わせる力があるとは思えない。作者は、作家業で頑張るより、デジタルハリウッド株式会社の大学事業で頑張るほうが、《一緒に次の作品を企てようという伴走者が現れてしまうような》才能を発揮できるのではないか?

久栖博季「ウミガメを砕く」

新潮2023年6月号。

読み始めてすぐに思ったのは、文章が下手、ということ。

書き出し、

《素足で陶器の破片を踏んだら、目の中に炎が燃えた。烈しいのに暗い炎だった。わたしは咄嗟にiPhoneのライトを点灯してマントルピースの上を照らし、その上に置いてある古い写真を睨みつけた。そうして動物に囲まれた写真のひとを目の中の炎に閉じこめて「アッシジの聖フランチェスコ」と揶揄する。そのひとの髪は短くさっぱりして、のぞいた耳朶には大きな銀色の輪のピアスをしていた。女性なのに、わたしが聖フランチェスコという男性とかさねるのは、写真の前に立つたびに男性のように力強くて大きなてのひらで心臓を握りつぶされる思いを味わうせいだ。[…] 》

《その上》という指示語が、「マントルピース」を指しているのか、「マントルピースの上」を指しているのかが不明瞭だ。前者であれば「その上」は「マントルピースの上」という意味になり(→マントルピースの上に古い写真が置かれている)、後者であれば「その上」は「マントルピースの上の上」という意味になる(→マントルピースの上の棚か何かの上に古い写真が置かれている)。

おそらく前者だろうと推測できるとはいえ、言葉に敏感な読者ならこの時点で引っ掛かりを覚えるだろう。「わたしは咄嗟にiPhoneのライトを点灯してマントルピースの上を照らし、”そこに”置いてある古い写真を睨みつけた。」とすれば、指示語の不明瞭さは消え、それ以外に解釈しようのない読みやすい文章となる。「マントルピースの上」と書いた直後に、「その上」という指示語を書くのは――日本語として間違っている訳ではないが――作文のセンスがない。

《素足で陶器の破片を踏んだら、目の中に炎が燃えた》とは一体何なのか。幻覚なのか、メタファーなのか(メタファーであればもっとマシなのを考えて欲しい)、最後まで読み通してもこの文章の意図が明かされることはなかった。何だ、作者がそういう表現を使いたかっただけなのね、と僕は一人で勝手に合点した。……それにしても、地震があったことに気づかない、小鉢が床に落ちた音にも気づかない、おまけに痛みを感じない(後天的な無痛症の)主人公が、暗闇のなかで自分の踏んだものが陶器の破片であると断定できた理由は何だろう?

(主人公は後天的な無痛症だろうに、「三十を過ぎて足の裏の皮がすっかり分厚くなったせいで、陶器の破片を踏んでも全然痛くない」(意訳)というトンチンカンな説明がなされる。本気なら「はぁ?」(by猫ミーム)、自虐ジョークのつもりなら寒過ぎる。)

《女性なのに、わたしが聖フランチェスコという男性とかさねるのは、》は説明的過ぎる。もとよりフランチェスコはイタリアの男性名だ。イタリアの男性名を述べた後に「~という男性」と補足するのは馬鹿げている。聖フランチェスコは高校の教科書にも登場するような(男性と分かり切っている)有名な人物だ。

《写真の前に立つたびに男性のように力強くて大きなてのひらで心臓を握りつぶされる思いを味わうせいだ》「~という男性」と聖フランチェスコの性別を駄目押しのごとく強調した直後、《男性のように》と安直な(質の悪い)比喩を挿入するのだから笑ってしまう。作者は、一人称の話者は、聖フランチェスコの男性性によほど惚れ込んでいるらしい。

内容に関しては……率直に、つまらなかった。

作者は書きたいことがたくさんあるんだろう、というのはひしひしと伝わってくる。二百枚に満たない中編小説で、アイヌやら動物の剥製やらいじめやら無痛症やら地震やら祖父の記憶やら、様々な要素が詰め込まれている。

主人公の夢、幻覚、回想シーン、またフランチェスコおばさんの個人的な思い出話に多くの頁が割かれ、主人公の現在パートはその犠牲になったかのように貧弱だ。現在パートは回想パートの導入として利用され、回想パートは現在パートの説明として利用される。主人公はダイニングテーブルの焼き鮭を見ただけで、《この鮭はどこで生まれたんだろう》とセンチメンタルな思いを馳せ、そこから何頁にもわたって小学生の頃の鮭に関する思い出話を語る。……コレ、オモシロイ? ワタシ、ドウデモイイ。

作者はリアリズムのつもりで書いているのだろう。だが、不自然なシチュエーションが多いせいで、どこか浮世離れしたファンタジックな雰囲気が漂っている。一番の問題は、アイヌの問題を扱っておきながら、社会的な視座が欠落している点だ。登場人物は主人公の身内ばかり。回想パートでいじめっ子が登場するくらい(いじめっ子の描写は紋切り型で、一昔前の少女漫画に登場するような顔のないモブキャラ程度の位置づけ)。この作品には具体的な手触りのする「他者」が存在しない。

主人公は、車のヘッドライトを点灯させた直後に、《ああ、そっか。電気って照らしたり機械装置の動力になったりするだけじゃなくて、そもそも文明世界の時間そのものを動かしているのだ、[…] 電気がわたしの時間を動かしている。電動の人生だ。》と「気づき」を得るような、相当変わった三十過ぎの女だ(おそらくスピリチュアルと親和性の高い人物だ)。

また、ただ片足を持ち上げるだけの行為を、《わたしは大型の水鳥のような優雅さで […] 》と、読んでいるこっちが気恥ずかしくなるような比喩で表現することから(自分で自分を「優雅」と表現するのか)、強烈なナルシシズムを有した人物であるとも推測できる。

この作品には身内以外の「他者」が登場しないため、主人公のこうした「変さ」「ナルシストっぽさ」が相対化されることはなく、読者にとっては最初から最後までよく分からない人物のまま。そんな「よく分からない人物」である主人公が、主人公以上に「よく分からない人物」であるフランチェスコおばさんとの交流を通して、ある種の癒し(のようなもの)を得る――。一体、誰に向けて書かれた小説なのだろうか? 作者は、身近な、ごくごく狭い範囲の読者だけを想定しているのだろうか?

(補足:「他者」が存在しない小説は駄目だ、と言いたい訳ではない。社会的な視座を有する優れた書き手であれば、身内間で完結するような小説であっても、その書きようによって登場人物および登場人物を取り巻く環境を相対化させることができるだろう。)

先ほど、この作品には「不自然なシチュエーションが多い」と書いた。

例えば、冒頭のシーン。小説に書かれている限りでは、主人公の住んでいるあたりは震度1だったと推測される。震度2以上であれば、母親よりも先に起床している主人公が揺れに気づかないのは不自然だからだ(主人公が何時に起床したのかはっきりと書かれていないが、明け方、iPhoneの懐中電灯が必要なほど暗いリビングで陶器の破片を踏んだということは、それより前、未明――地震の発生する時間――には目覚めていたと考えられる)。

主人公はリビングで踏んだ陶器の破片について、《不安定なところに置いてあったのだろう》と他人事のように振り返っている。震度1で小鉢が落下するなんて、どれだけ不安定なところに置かれていたのだろう? 地震対策のために枕元に懐中電灯を置いて寝るほど意識の高い母親が、リビングのそんな不安定なところに小鉢が置かれているのを容認するとは思えない。色々とシチュエーションに無理がある。

また、回想シーン。主人公の「おじい」は二週間も家出する。主人公は《トルストイみたい》と暢気な感想を述べているが、二週間も「おじい」はどこで何を食べて生き延びたのだろうか? 温暖な環境ならまだしも、ここは北海道だ。家族の誰かが警察に捜索願を出したという記述もなく、全てがフワッとしている。社会的な視座の欠落はこういった場面にもあらわれている。

また、さらに別の回想シーン。高校生の主人公はピアノを弾いている最中に、いじめっ子によってピアノの蓋を乱暴に閉められてしまう。演奏中ということで、おそらく両手に怪我を負ったのだろう(薬指に至っては骨が粉々になったそうだ)。白い鍵盤を汚し、さらに音楽室のカーペットに赤黒い染みを作るほどの手指の出血、これはなかなか酷い怪我だ(いじめっ子は北斗の拳よろしく凄まじい勢いでピアノの蓋を閉めたに違いない)。

一人で手当てして母親相手に腱鞘炎だと嘘をついた、とある。それだけの出血であれば手当の途中で包帯に血が付着してしまうはずだ。骨が粉々になるほどの骨折なら炎症によって酷く腫れ上がるため、腱鞘炎と誤魔化し切るのはなおさら難しいだろう。作品の冒頭で娘の足の裏の怪我について「夕香、その足なによ、どうしたの!」と騒ぐような母親が、両手とも血に汚れた包帯ぐるぐる巻きの高校生の娘を「あらあら腱鞘炎なら仕方ないわね~」とスルーするとは思えない。

……疲れた。

文章に関しても内容に関しても、まだまだ書き切れないほどツッコミどころが多い。

中上健次『蛇淫』

小説を芸術の域に持っていくには、「物語」という”定型”に作家の肉体・精神を流し込む必要がある、それは作家の肉体・精神と結びついた経験(記憶)から文章のひとつひとつに「色」をつけていくことを意味する、中上ははじめから作家固有の「色」を掴んでいた、だからニ十歳そこらで「海へ」を書き上げることができた。

とはいえ、「海へ」に――物語の原型となり得る主題はあっても――物語と呼べるものはない。あるのは作家固有の「色」だけ、中上の身体感覚が反映された描写で保っているような作品だ。「海へ」は、講談社文芸文庫の年譜で詩に分類されているが、僕は小説だと思う(この言葉の過剰さは小説でこそ真価を発揮する類のものだ)、作家として未成熟、気取った記述が鼻につく、ナルシシズムに抑制が効いていない、いかにもといった感じの若書き、主題があからさまに語られ、くどいほど繰り返される、だがそこには剥き出しの才能があった。僕は実際の中上を知らないが、気性が荒く、涙もろい人だったのではないかと思う、短編でもあっても気分のムラが見られ、途中から文章のテンションががらりと変わってしまうこともめずらしくない。

『十八歳、海へ』の解説だったか、津島祐子が(同い年の)中上に対して嫉妬に近い感情を抱いたことを吐露していた記憶がある。ああ、だろうな、と僕は思った、物語として成立する以前の、作家固有の「色」だけでひとつの小説を書き上げてしまうエネルギーに満ち溢れた中上を目の当たりにして、津島は自身の作家としての物足りなさを指摘されたような気分になったのではないか。……逆に言えば、中上は物語をつくるのが下手だった、物語/反物語どうこうと熱く語っていた割に堪え性がなく、自分以外の人間(特に女)を三人称で描こうとすると――『鳳仙花』がただの通俗小説に堕していたように――通俗に流れやすい欠点があった、作品ごと出来不出来の差が激しいのもそのせいだろう。いっぽう、中上の素質と中上の描きたいものが上手く嚙み合った時は『奇蹟』のような傑作が生まれた。

つい最近、講談社文芸文庫の『蛇淫』を手に取った。僕は中上の小説が好きだが、それほど熱心な読者という訳ではない、表題作「蛇淫」は何年か前にざっと読んだだけで放置していた。ふたたび手に取ったきっかけは、岩波文庫から道籏泰三編『中上健次短篇集』が発売されたことだった。僕は道籏泰三を知らないが、「隆男と美津子」、「十九歳の地図」、「眠りの日々」、「修験」、「穢土」、「蛇淫」、「楽土」、「ラプラタ綺譚」、「かげろう」、「重力の都」というチョイスを面白く感じた、その流れから、講談社文芸文庫の『蛇淫』をまだちゃんと読んでいなかったことを思い出し、妻の買った本と僕の買った本とがごちゃごちゃに混ざっている本棚から引っ張り出した。

正直、講談社文芸文庫の『蛇淫』は質が高い短編集と言えない、表題作「蛇淫」を読んで思ったのは、手抜き、ということ、この作品は「岬」とほぼ同時期に発表されているはずだが、「岬」の力の入れように比べ、「蛇淫」は(悪い意味で)楽に書かれている。書き出しは、上手い。文章の呼吸が整っている、個々の描写に生々しさがあり、独特な精彩を放っている。ただ、あくまで中上が描きたかったのは冒頭の描写――女のゆれる髪、女が浴場のタイルを洗う姿、殺害した母のパンツに性器の形が浮き上がっている――だけだったのだと思う、それ以降、回想に入ってからはぱっとしない描写が続く(母の台詞だけは筆が乗っている)。

「蛇淫」のもとになったのは市原両親殺害事件だそうだ。wikiの情報を参照すると、市原両親殺害事件の犯人である息子は、風俗店勤務の女との結婚を反対されたことに激怒して両親を殺している。中上は「蛇淫」で似た場面を再現しながらも、「彼」(「蛇淫」の語り手に近い位置にいる主人公)が女との結婚を反対されたことに激怒したことは直接的に書かず、《原因など、ことさらなかった。元々彼はグレていた。この町一番の不良だった。》と濁すに留めている。ならば、だ。今作の価値は、「彼」が原因などことさらないのに父と母を死に至らしめる場面を、「彼」が暴力の衝動に突き動かされる瞬間を、どれだけ説得力を持って描き出せるかで決まると言える。だが、中上は両親を殺害する前後だけで作品を構成し、「彼」が暴力の衝動に突き動かされる瞬間、ひいては両親を殺害するシークエンスを丸ごと省略してしまった。これは技巧ではない、ただの逃げだ。

中上は「親殺し」の主題に興味を惹かれただけで、市原両親殺害事件の犯人の人物像には関心がなかったのではないか、中上がそれまでの作品で散々書いてきたような(いかにも)”中上的”な人物らが、市原両親殺害事件に倣ってそれに近い配役を当てられているだけ、「蛇淫」はそれ以上でもそれ以下でもない。中上が息抜き程度に書いた(中上の熱心な読者のための)ファンアイテムということなら納得できるが、表題作として掲げるほどの作品かは疑問が残る(「蛇淫」は岩波文庫の短編集にも収録されている)。

両親との会話の後、一行空きで、「彼」は《いまでこそそう思う。そんなに、灰皿で、いきなり殴りつけるほどのことでもなかった。》と両親を殺害する場面を振り返る。両親に暴力を振るった時の描写はこれだけだ。この時、中上は作家としての想像力を巡らせることを放棄している。市原両親殺害事件の息子は両親を登山ナイフで刺し殺しているが、「蛇淫」の「彼」の手もとにあったのは灰皿という殺傷力の低い武器だけ。相手は一人ではない、父と母の二人、しかもその場には「彼」の恋人である女も居合わせている、女は何もせず、「彼」が父と母をそれぞれ灰皿で殴り続けて殺すのを黙って見ていたとでもいうのか、発想が子供のそれでリアリティがない、「読者の脳内でテキトーに補完してください」と言わんばかり、中上はもととなる事件があることに胡坐を掻き、もととなる事件と異なる状況下における両親の殺害シーンをろくに検証せずに書いている。

最後の一文、《家に火をつけ、二人を火葬にして、車で行けるところまで行き、汽車に乗り、天王寺にでも出ようと思う。》これは蛇足だ、それまでの文体と変わってただの日記になっている。この最後の一文はどうかと思うが、基本的には中上は筆力のある作家だ。だが、筆力があることは、大して考えずとも「それっぽく」書けてしまうという危うさを含んでいる、だから作家はナルシシズムに自覚的になり、自分の書いた小説に対して厳しい目を向ける必要がある。「蛇淫」は純文学ではない、習作レベル、”純文学ふう”の三文小説、中上の悪い癖、露悪趣味がもろに出てしまっている。